現代仮名遣いについておもうところ

諸注意
前もって申し上げるが、筆者は言語学を専攻しているわけでも、その手の文献を読み漁っているわけでもない。ただ日常を過ごす中で湧いた興味関心をほとんどインターネットで解決している人間に過ぎないのである。
それゆえ、この後書き連ねる予定の文章について、その品質や根拠、出典などについて保証しかねる場面がかなり存在すると思われる。いや、確実に存在する。
読者の方々は、どうかその点に留意し、大して真剣にならずに読んでいただければ幸いである。
はじめに
我々が日本語で文章を書くときには、当たり前のように現代仮名遣いと新字体を用いている。日本語がこのようにして書かれるようになったのは第二次大戦後のことであり、いまやすっかり定着したやり方ではあるが、それに対して異を唱える人々もいる。
本文では、現代の日本語の書き方に関する対立について紹介することを試みるとともに、筆者なりの解決策について述べる。
改革の結実
第二次大戦の敗戦は、日本人に相当なショックを与えたらしく、連合国からの圧力も手伝って政治体制やら社会や経済の体制やらが大きく変化するきっかけになった。
変化の波が押し寄せたのは言語の世界も例外ではなく、横書きの方向が変わったり、カタカナよりひらがなが優先されるようになったりといった変化が起きた。
中でも、新字体、当用漢字の制定や、現代かなづかいが定められたことは最も重要な出来事であったと言えよう。
戦前の日本語には現代よりも多くの漢字が使われ、字体も現在使われているものより複雑なものであった(中国語の繁体字とほぼ同じである)。そのため、新聞をはじめとした文章には必ずフリガナが振られていた。
また、当時の仮名遣いは今日「歴史的仮名遣い」と呼ばれるものであり、現実の発音とそれを表す文字が異なる場合があった。
このような複雑な体系があまり親切なものではないと考えた人々は、それを解決するために漢字の種類を制限することや、ゆくゆくは仮名文字やローマ字といった表音文字に移行することを提案していた。
そんな中、日本は敗戦を迎え、自信をなくした日本人は、アメリカのような合理的な国家に憧れ、合理的なシステムを求めるようになっていた・・・のかもしれない。
かくして、国語の大改革が実施され、書体を変えて描きやすいものにした新字体、漢字を覚える負担を減らすべく使える漢字の種類を制限した当用漢字、より現代の話し言葉に忠実な現代仮名遣いが制定され、現代の日本語につながっていくのである。
表音と表意、あるいは伝統の対立
言語を書き表すにあたり、どのような部分に重きを置くかは各言語によって異なる。
一方は話す音を忠実に表そうとする考え方であり、もう一方は伝統的な書き方に忠実であろうとする考え方である。これを言い換えれば、言語の今を重視する考え方と、過去とのつながりを重視する考え方であるといえよう。
音に忠実な書き方を目指すのはわかるとして、伝統的な書き方に忠実であることを目指すとはどういうことか。
例えば、タイ語は古代の綴りに忠実に書かれているそうで、古代の仏典でも理解できるようにするためであるとされる。また、英語も実は伝統を重んじる部類の言語であり、単語の綴りと発音の対応がやたら複雑なのはそのせいである。
日本語の場合、綴り方に相当するのは仮名遣いであるといえ、音に忠実であることを目指すのが現代仮名遣い、伝統に忠実であろうとするのが歴史的仮名遣いであると言える。
日本語の場合、表音VS伝統という対立に加え、表音VS表意という対立も存在する。
表音に重きを置く考え方とは、大雑把に言ってしまえば日本語を音に忠実に書き起こすことを重視し、漢字をできるだけ排していくという考え方である。
一方の表意に重きを置く考え方とは、日本語とは切っても切り離せない関係にある漢字を重視する考え方である。
これらの派閥は近代において壮絶なレスバトルのようなものを繰り広げており、表音が改革派で、表意・伝統が現状維持を目指す保守派であった。
戦後の一連の改革では、時代の空気によって両派閥の均衡が崩され、表音側の考え方の一部が実現されたと言える。これは表意・伝統側の敗北と言えることであるが、一方で一部については守り抜いたとも言える。
しかし、結果として日本語は後述するような中途半端な状態になってしまった。
仮名遣いの合理性
現代仮名遣いが目指したのは、発音される通りに書き表すという合理的な書き方であった。
しかしながら、現代仮名遣いは本当に合理的な書き方であると言えるのだろうか。また、歴史的仮名遣いは本当に不合理なものであったのだろうか。
現代仮名遣いが抱える問題は、助詞の表記が古いことと、四つ仮名の踏ん切りがついていないことにある。
助詞の「は」「へ」「を」は、発音的には「わ」「え」「お」と同じであるにも関わらず、歴史的仮名遣いの表記に引きずられている。ただし、「を」については「o」以外の発音が現在は存在しないため、許すことはできるかもしれない。問題は「は」と「へ」であるが、実際には「わ」「え」と書くことが許されていたものの、一般に定着しなかったためにそのままにされているということのようだ。
四つ仮名というのは「じ」「ず」「ぢ」「づ」の四文字のことを言い、方言ごとに発音を区別するかどうかが異なる。少なくとも共通語においては「じ」と「ぢ」、「ず」と「づ」の発音は同じとなっており、共通語を書き表す際にはそれを反映すべきである。
しかし、実際には語源意識にもとづいた書き方がしばしば見られ、その基準もよくわからない。「仮名遣い」という言葉自体が良い例で、「現代かなづかい」の思想に基づけば「現代かなずかい」と書くべきところを「かなづかい」としているので、一部から格好の攻撃材料にされたとかされないとか。その結果ということなのか、「現代かなづかい」のマイナーアップデートののち、表記は「現代仮名遣い」と改められた。漢字に逃げやがったなこの野郎というわけである。
一方歴史的仮名遣いはどうかというと、助詞の表記が実際の発音と離れていようが、それは昔の表記に忠実に書いた結果であり、四つ仮名が語源意識のせいで発音と離れていようが、むしろ語源意識こそすべてであるので四つ仮名全体に適用すべきことということになる。
歴史的仮名遣いは、時代を超えた日本語の正書法として設計されてきたもので、過去1000年ほどにわたり洗練されてきたものなのである。保守派からすれば、新参者でしかも合理性が中途半端な現代仮名遣いが許せないのも当然と言える。
そんなわけで、現代仮名遣いは改革派からすれば改革が不十分なものであり、保守派からすれば全く必要のない改革であったため、両サイドから非難されている。はずである。
中途半端はやめにすべき?
終戦直後に自信を失った日本人が、何かを変えなければならないと感じていたことと、連合国が日本を改造しようとしていた思惑が重なったという理解でいいのかはわからないが、ともかくその時代には改革が一気に進んでいった。
とはいえ、終戦直後は深刻に捉えられていた問題も、時代が下るにつれ忘れ去られていく。世はまさに改革派の時代という感じであったが、そのうち大衆からすると違和感のあることをやりはじめ(漢字の音読みと訓読みを一つずつにしようとしたことなど)、支持が薄くなっていった。
かといって歴史的仮名遣いに今更回帰するということはなく、現代仮名遣いはもはや当たり前のものとして定着している。
前述したように保守、革新の両方から見て中途半端な位置に落ち着いてしまったのだが、大衆はそれを大して問題視することなく使っているし、今後も当分はそのような状態が続くであろう。
メディアも政府も学術界も使っている以上、その形式を覆すのは非常な困難が伴うことであるし、形式の変更に伴う困難と混乱に見合う恩恵が得られるとも思えないからである。
そんなわけなので、これから解決策じみたものを提案するが、本気でその方式が採用されることを願うものではなく、単に筆者の趣味の問題であるということをあらかじめ申し上げておきたい。
端的にいうと、この際表音に全振りすればいいのではないかと考えている。
中途半端な状態を解決するためには、前に進むか後ろに戻るかが解決策として考えられるが、ここで歴史的仮名遣いと旧字体に回帰しようと言っても、体系がほぼ出来上がっているから面白くないかもしれないし、旧字体を書くのと覚えるのが面倒くさいので、簡素化する方向に逃げようというわけである。
また、それに加えて個人的に表音文字作りの方が好きであるということも、音を重視する体系を推す理由であるが、おそらくそんなことはどうだっていい。
筆者が言うところの「表音に全振りする」ということは、言い換えると四つ仮名はザ行に揃え、助詞の「は、を、へ」は「わ、お、え」とし、長音には長音符を!ということに尽きる。
もっとも、「言う」が「ゆー」になって「言ー」となるのでは具合が悪いので、基本的に表音としながらも、長音が漢字によって分断される場合は母音を書くようにしても良いだろう。
とはいえ、こういうことを言ったところで時代が下ればまた修正が必要になってくるであろうし、結局は書き手がどんな風に書くかというところに尽きるのだろう。
まとめと結論
・近代日本語の改革は、意味を重んじるか音を重んじるかのせめぎあいであった。
・壮絶な論争の結果、中途半端な日本語が誕生し、世論はそれを受け入れた。
・一部の人々はいまだに綱引きを続けているが、世論は関心を失っているであろう。
・個人的には表音に振り切ってみることを提案するが、最終的にどうするか決めるのは書き手の意思に委ねられている。
最後に、内容の正確さが担保できていないにも関わらず、過激な文体で各方面を批判してしまったことをお詫び申し上げたい。
おまけ(例文)
日本国憲法前文の一部を歴史的仮名遣い、現代仮名遣い、表音全振りの仮名遣いで書いてみた。どれがしっくりくるか考えて(感じて)みていただきたい。なお、原文は歴史的仮名遣いと旧字体によって書かれている。
<歴史的仮名遣い&旧字体>
日本國民は、正當に選󠄁擧された國會における代表者を通󠄁じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸國民との協和による成󠄁果と、わが國全󠄁土にわたつて自由のもたらす惠澤を確保し、政府の行爲によつて再び戰爭の慘禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主權が國民に存することを宣言し、この憲󠄁法を確定する。そもそも國政は、國民の嚴肅な信託によるものであつて、その權威は國民に由來し、その權力は國民の代表者がこれを行使󠄁し、その福利は國民がこれを享受する。これは人類普遍󠄁の原理であり、この憲󠄁法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲󠄁法、法令及び詔勅を排除する。
<現代仮名遣い>
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する
<表音全振りかなずかい>
日本国民わ、正当に選挙された国会における代表者お通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢お確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないよーにすることお決意し、ここに主権が国民に存することお宣言し、この憲法お確定する。そもそも国政わ、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威わ国民に由来し、その権力わ国民の代表者がこれお行使し、その福利わ国民がこれお享受する。これわ人類普遍の原理であり、この憲法わ、かかる原理に基ずくものである。われらわ、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅お排除する。
参考
表音派の考え方を知ったところ
ローマ字 あいうえお https://green.adam.ne.jp/roomazi/
伝統派の考え方を知ったところ
國語問題協議會 http://kokugomondaikyo.sakura.ne.jp/
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